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大原大次郎「少年タイポ展」

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大原大次郎の「少年タイポ展」に行ってきた。
はじめて行くギャラリーだったので、あらかじめギャラリーのホームページで、行き方を確認。

京王井の頭線 駒場東大前駅から(徒歩約8分)。
吉祥寺側(渋谷から遠い方の)改札口を出て、線路沿いの緩やかな登り坂を吉祥寺方面へ。道なりに右の方へ登って行き、近代文学館の看板が立っているひとつ目の角を右に曲がります。住宅街を真直ぐ突き当たりまで行き、大きめの道路に出たら、すぐ上原二丁目の横断歩道で向こう側に渡ります。渡ったら左へ。すぐの角を右に入り、ひとつ目の角を左に曲がると左側に赤い看板の建物が見えてきます。


とのことだ。
この案内分を携帯のメールに送って、そいつを頼りに、京王井の頭線、駒場東大前駅で降りて、目的地へ向かう。ああ、地図をプリントアウトして来ればよかった、と、すぐに後悔したが、まあいい。それと、この日は結構寒くて、ちょっと薄着な格好で出てきたこともまた少し後悔したが、これもまあしょうがない。
駅から降りて、すぐにコンビニがあり、もうちょっと行くと喫茶店「コロラド」がある。寒かったので、そこでコーヒーを飲んだ。本日のコーヒーは「ブラジル・サントス」だったので、それを頼む。
「コロラド」を出て、携帯に転送した道案内を見ながら歩く。閑静な住宅街の家々の玄関先には、まだハロウィン用のカボチャが飾られたままだ。
道案内の文章を追いかけながら進むと、意外とすんなりと到着した。それにしても、地理的な場所を伝達する方法として、文章というのはいささかやっかいな表現だ。すべて時系列で直線的に情報を小出しにしながら表現しなければならない。一方、地図は平面的に一目でわかる。視覚的にパッと伝わるのだ。なるほど、「文章」と「ビジュアル」は根本的に異なる情報言語であるのだ。
と、そんな事を考えながら到着したギャラリーは、やはり静かな住宅地の中で、小さく佇んでいた。
ガラス戸を押して中に入ると、「おもんまん」こと、大原大次郎がいた。

壁には大きな学校の黒板を模した画面の上にチョークで書いたようなテクスチャでびっしりと文字が書かれた作品があった。圧巻。大したものだと思った。
他にはたくさんのジン(自主制作の冊子)があり、自由に読むことが出来た。壁にもたくさん貼られていて、熟読。
ユニークだなと思ったのが、来るお客さんが、みんな作品を鑑賞しているというよりは、熱心に、それら膨大の文字を読んでいるという事だった。雰囲気的には図書館のような感じだ。
大原大次郎の作ったジンには、遡る事、小学生時代のものからあって、その内容と情報量には驚いた。そしてなにより、その時代の雰囲気や、そのジェネレーション特有の興味が素直に全力で注ぎ込まれていた。私は大原大次郎と同い年という事もあり、すべてに共感と懐かしみを感じると同時に爆笑した。

大原大次郎に訊いてみた。
「子供の頃からこんなに書いていたのに、ライターとかジャーナリストとか、編集者には、ならなかったんだね。」

すると彼は、
「そうなんだよ。俺、文章はアレだから。ダメだって気付いたから。」
と言った。

なるほど。おもしろいものだ。
タイポグラフィというのは、印刷技術の発達にともなって規格化された「文字」の体裁を整える技術であるり、いわば機能美の追求であるといっていい。
彼が子供の頃から書き続けた膨大な文字情報は、文章・言語表現やジャーナリズムの洗練ではなく、そのビジュアルの洗練へと向かったのである。

実際に彼の作品を見て感じたのは、言葉という情報が持っている「形」と「意味」と「時代性」のどれもが、非常にユニークなバランスで組み合わされており、日本語の「視覚表現」としてはオンリーワンの表現と言い切っていいとおもう。編集センスもたいしたもんだと思った。
音楽的なアプローチだと、ASACHAN&巡礼がそれをやってる。
「音」「リズム」「意味」「地域性」「時代性」のスクラップ&リビルドだ。

ビールを一杯ご馳走になってアトリエを出た帰り道、ああ、地図を持ってくれば良かったな、と、また後悔すると同時に、そうだ、大原大次郎が「地図」を描いたらさぞかし面白かろう。と想像しながら、近づく冬の寒さに震えながら駅まで向かった。

11/7(土)に、また行く。18時からトークイベントがあるみたいだから。


補足とコメント

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